被災地の17年後

1995117日。
巨大地震が日本列島を襲いました。
阪神・淡路大震災です。
今回、17年前の被災地である淡路島を訪ねてきました。

淡路島は漁業と農業のまち。
地域の人間関係が深く、人口における高齢者比率が高い。
まさに東日本大震災の被災地と似ているところがたくさんあります。

今回は、島をめぐった後、震災を学ぶことができる北淡震災記念公園を見学してきました。

↑公園は、野島断層保存館、セミナーハウスなどで構成されています↑

↑野島断層保存館に入ってすぐ、当時の状況が再現されています↑

↑震災で大きな被害をもたらした野島断層がそのまま残されています↑

↑地震によりひび割れた壁 住居の再現などもあります↑


今回、野島断層保存館課長であり、震災の語りべ事務局を担当されている池本啓二さんに、お話を伺うことができました。

↑突然の訪問にもかかわらず快くお時間を割いてくださり感謝です↑

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Q:阪神・淡路大震災当時の様子を教えてください
A:兵庫県川西市で被災しました。淡路島は、いなかなので、都会である他の被災地とはまた違った状況がありました。特に、人と人とのつながりを大切にする土地柄の中で、震災時にも多くの助け合いがありました。
北淡町(震災当時。現在は淡路市)では、残念ながら39名の方が亡くなったのですが、実は約300名が生き埋めになっていました。日頃から顔を合わせる関係ができていたので、自分たちで救出活動を行った結果、多くの命を救うことができました。特に消防団が活躍しました。この島では「消防団に入ることが大人の仲間入り」と言われるほど、消防団に入ることが当たり前になっており、組織率も高いです。

Q:阪神・淡路大震災の時、女性や子どもはどのような状況に置かれたのでしょうか。
A:被災後においては、どうしても男目線で活動せざるをえず、男性中心になってしまったところもあります。未曾有の災害であったこともあり、誰も何も分からない中、女性・子どもに対する配慮ができなかったところもあると感じています。当時の失敗を今後に活かしていく必要があります。

Q:淡路島がここまで復興した原動力はなんだったのでしょうか
A:淡路島はいなかであり、「ここに住むしかない」という人が少なくありません。先祖代々この島に住み、この島で仕事をしてきました。「ここでもう一度生活を立て直していくしかない」という想いがありました。
ただ、震災前のすべてが取り戻せたわけではありません。北淡町は、人口が約1,000人減りました。若い人を中心に、島外に人口が流出しました。

Q:震災を伝える「語り部」としての活動について教えてください
A:当初は語り部の事務局のみを担当していましたが、現在は、自身も語り部として年30回ほど、保存館を見学に来た小中学生を中心に、震災の体験を話しています。阪神・淡路大震災後に生まれ、震災を知らない子どもが増えました。今後また災害が起こった時、少しでも被害を減らしたいという思い、語り部として活動することにしました。

Q:語りべとして大切にされていることを教えてください
A:「備える」ことです。ちょっとしたことでも、何でもいいから備える。そして、日頃から、人と人とのつながりを大切にしておくことです。

Q:皆さんにメッセージをお願いします
A:東日本大震災の復興から、たくさんのことを学ぶ必要があります。南海・東海地震は今後必ず起こると言われています。「次は自分」です。
また今回の震災では、津波の恐ろしさばかりが取り上げられていますが、直下型の地震も甚大な被害が起こります。「津波が来ない場所だから安心」ということはありません。
自分の命を守るために、備えることが大切です。

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「備える」という言葉のとおり、公園には、たくさんの、「備える」大切さを伝えるものがありました。


↑防災グッズが販売されています↑

↑レストランにも当たり前のように啓発のチラシが貼られています↑

↑そのレストランで販売されている、淡路の名産である淡路牛と玉ねぎをつかった牛丼です↑

住民自らが、住み慣れたまちを復興させていく。
その大切さを改めて感じるとともに、私たちは過去の震災、そして東日本大震災から、もっと多くのことを学ばねばならないと思いました。